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■戦国武将--人物紹介

浅井長政(1545年12月22日〜1573年9月26日)
北近江の戦国大名。豊臣秀頼や徳川家光の祖父。
織田信長と同盟の際、長政は信長の妹の市を妻とした。 が、同名破れて信長に居城を包囲され落城が迫った時、市と3人の娘を織田に帰還させている。市が信長の陣営に帰還する時、浅井・織田軍も一切の攻撃をしなかった。
長政を高く評価していた信長は降伏した後は大和へ新領地を与えるという、破格の条件も出し、不破光治、木下秀吉なども使者として送ったが長政は頑として断り続け父の久政と共に自害した。
辞世の句:けふもまた尋ね入りなむ山里の花に一夜の宿はなくとも

加藤清正(1562年7月25日〜1611年8月2日)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥後熊本藩初代藩主。
智勇兼備の名将、また築城の名手として知られている。
領内の治水事業にも意欲的に取り組み、清正は莫大な人手をまかなうため男女の別なく動員したが、給金を払い必要以上の労役を課すことなく、事業の多くを農閑期に行う事によって農事に割く時間を確保したという。みな喜んで協力したという。
伏見大地震が起こって秀吉がいた伏見城が倒壊したとき、清正は300人の手勢を率いていち早く秀吉のもとに駆けつけ、警護を務めた。秀吉は清正の忠義を賞賛した。

福島正則(1561年〜1624年8月26日)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より秀吉に仕える。
関ヶ原の戦いでは勝利に貢献第一と目され、西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8200石の大封を得た。
しかし、台風による水害で破壊された広島城を無断でほんの少しだけ修理したことが武家諸法度違反に問われ改易、越後国魚沼郡、4万5000石に減封される。さらに、政則死去の際、家臣が正則の遺体を幕府の使者が到着する前に火葬したため福島家は残りの2万石も没収され、後を継いだ正則の子・正利は3000石の旗本に身分を落とす。

藤堂高虎(1556年2月16日〜1630年11月9日)
戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。
6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。
文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。「常に死を覚悟していれば、心は動じない」の言葉を残す。
高虎は、いわゆる実力主義者であった。豊臣氏恩顧の大名でありながら徳川家康に対し、「自分を家臣と思って使ってください」といち早く且つ露骨に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。 が、「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」と言ったと言う。