オリジナルキャラクターはCHARA-POP<090-7848-0462>
■戦国武将--人物紹介
斉藤道三 (1494年〜1556年5月28日)
戦国時代の武将。美濃の戦国大名斎藤氏の初代当主。北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型とされる。娘の帰蝶を織田信長に嫁がせている。
家督を子の義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居したが、義龍よりも、その弟孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされる。道三と義龍の不和は顕在化し義龍は弟たちを殺害し、挙兵する。 娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わずに衆寡敵せず、戦死した。 享年63。
辞世の句:
 捨ててだに この世のほかは なき物を いづくかつひの すみかなりけむ
前田利家(1539年1月15日〜1599年4月27日)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。加賀藩主前田氏の祖。
小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手だった故「槍の又左」の異名をもって怖れられた。
五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より五大老の一人に命じられる。
後年には漢籍などの学問も学び、茶の湯、能などの文化的活動も積極的に行った。茶道は千利休、織田有楽に学び、茶入は秀吉から譲られた名品「富士茄子」を所有。
特に能を好み、気晴らしや社交術として三日に一度は稽古をする程の熱の入れようであったという。

山内一豊(1545年〜1605年11月1日)
戦国時代から安土桃山時代、江戸時代の武将・大名。土佐山内氏の当主。
秀吉の家臣として活躍、賤ケ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城攻めで一番乗りの手柄をあげている。
秀吉の死後の慶長5年には五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加し、家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると東軍に与している。
山内家家臣を上士、旧長宗我部氏の家臣を郷士とした扱いは次代から幕末になるまで引き継がれ坂本龍馬などの人物が生まれることになる。

黒田長政(1568年12月21日〜1623年8月29日)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前国福岡藩初代藩主。
豊臣秀吉の軍師、黒田孝高(官兵衛、如水)の長男。
関ヶ原後、家康は長政の功労に手をとって喜んだとまで言われている。帰郷してこの事を父如水に話すと、「その時左手は何をしていた」(即ちなぜその時左手に短刀を持って家康を刺さなかったかと言う意味)と詰問された
嫉妬深い一面があり、父如水が死去すると、黒田家随一の勇将で武功も多く、如水から大名なみの厚遇を与えられていた後藤又兵衛を追放し、さらに奉公構という措置を取った。 嫉妬からだと言われている。