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■戦国武将--人物紹介

竹中半兵衛(1544年9月27日〜1579年7月6日)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。羽柴秀吉の軍師として活躍。
斎藤龍興に仕えているときに稲葉山城を少数の仲間とともに乗っ取る。すぐに返還。
体が弱く見た目は痩身で女性のようであり、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという。
播磨三木城の包囲中に病に倒れた。秀吉は重治の病状を心配して京都で療養させたが、重治は自らの死期を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して6月13日に死去。享年36。死因は肺の病気(肺炎か肺結核)とされる。

本多忠勝(1548年〜1610年12月3日)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。伊勢桑名藩初代藩主。
徳川四天王・十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。出陣するとき、忠勝は愛槍である蜻蛉切と鹿角脇立兜、そして肩から大数珠をさげるのが常であったといわれる。蜻蛉切は穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話から名が付いた槍の号。
鹿角脇立兜がシンボルで、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛される。

前田 利益<慶次郎>(1541年〜1605年)
瀧川一族の出身、前田利家の義理の甥。奇矯な振る舞いを好むかぶき者(傾奇者・カブキ者)としても知られた。
関ヶ原の戦いの翌年に京都の伏見から米沢へ下向した時の事跡を日記に記して(前田慶次道中日記)いる。
直江兼続との親交が有名で、隠棲後は兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝わる。
新井白石は「世にかくれなき勇士なり」と利益を賞賛している。


前田利益紋
津軽 為信(1550年1月18日〜1608年1月22日)
弘前藩の初代藩主。 南部一族の豪族の出。
関ヶ原の合戦中、国許では家臣反乱が起こり、居城を占拠されたが、西軍敗戦の報が伝わると反乱方は戦意喪失の上で追討されている。(為信は東軍についていた。)
あご鬚が長く垂れていたので「髭殿」と呼ばれた。これは為信が三国志の関羽にあこがれての私淑であったとされている。
嫡男信建が京で病に倒れた際、津軽にいた為信は、自身も病に陥っていたにもかかわらず、信枚を伴って京まで見舞いに訪れ、そのまま同地で没している。
弘前市を中心とした津軽地方では人気が高い。